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(2021/1/1 - 2021/6/30)


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2月23日。おお、牧場は緑! / 自分の外側にある、自分を動かす何かについて。

口笛を吹いている。キャンディーズの「春一番」らしい。なるほど春を思わせるような暖かさで、散歩をしていて口笛を吹きたくなる気持ちはよくわかる。しかしキャンディーズとはまた、世代が知れようというものだが、事実だし別に構わない。雪が溶けて川になって流れていきます、という歌詞を思い出し、それが別の歌の引用であることに卒然と気づく。雪が溶けて川となって、山を下り谷を走る、野を横切り畑うるおし、呼びかけるよ私に、ホイ! というわけで、「おお牧場はみどり」という歌である。検索をかけたらチェコ民謡であると。学校で愛唱歌かなにかに入っていたような気がするし、およそそういうふうに誰もが知っていたからキャンディーズの歌に本歌取りが成立したのだ。また、思えば、子どものころにこの歌にあたりまえに親しんでいたときには、雪が溶けて川になって、といった歌詞もごくふつうのものと感じていたにちがいなく、この世界はそのようにできているものだと感じていたにちがいないことにこれまた卒然と気づくわけである。自分は地方のごく普通の住宅地に生活していたのにもかかわらず、この世界では春になると雪が溶けて川になって、山を下り谷を走り、野を横切り畑をうるおしたりして、牧場に草があおく茂り、風が吹きわたっている、という、そういう光景があたりまえに広がっているのだ、と思っていた。テレビで『アルプスの少女ハイジ』や『大草原の小さな家』を見たりしながら、そういう世界に生きていたわけである。なにがしかその延長でキャンディーズは「春一番」を歌っていたわけで、もうすぐ春ですね、ちょっと気取ってみませんか、重いコート脱いで出かけませんか、というのも、そういう世界の気分とともにあったわけである。というような想念が瞬時、あたまをめぐった。いまそんな気分がどこかの誰かにあるのかないのかよくわからないけれど、少なくとも自分はすっかり忘れていた。身体拡張の様式が・・・とかなんとか・・・

お正月も帰省せず、年明けからあわただしく会議やら入試やらごたごたあって(センター試験ならぬ今年から「共通テスト」、も、なんとか無事にできてなによりだった)、気がついたら2月も半ばということになった。そういうのも毎年のことで、一月は行く、二月は逃げるとはよくいったものだなあ、などと感心するのも毎年のことである。今年はしかし、役が当たっているせいもあってか、ほっとひといきのような気分にもならず、また、この時期になにか論文を、といったことも早々に諦めているので、さながら水を打ったような不動心ぶりである。体調を崩したくないと思えば不要不急の外出もせず、テレビとパソコン画面と下宿の床と天井とをだいたいかわりばんこに見ているうちに週末が終わるような日々を過ごし、それでこんなことではいけないと重たい身体を起こして外に出ると意外に暖かくて気がついたら口笛を吹いていたりする。

年末にふとしたことが気にかかって、年末年始はプチ肉断ち&プチ酒断ちしつつ、年明け早々に医者に行ったりしてまぁ結果的に何事もなくいたって健康体だったので(まぁ例によってコレステロール値だけは高めだったのだけれど)、なんとなく食っちゃ寝のおとそ気分を逃してしまったわけであるが、ともあれ、何事もなく健康体だったのはよかったとすべしである。それでアルコールには早々に手を出してしまったわけだがプチ肉断ちのほうだけは続いていて、まぁ体重があるていど減るまでと思いながらなかなか減らないのでやめにくい。しばらくは魚を食べるべしということである。
それで思い出したが今年はそういうわけで下宿でお正月だったのでスーパーで出来合いのおせち料理を買ったのだが、大みそかにスーパーに行ったらおせちの詰め合わせたのが、1000円のと2000円のがあって、1000円のほうの賞味期限が12/31だったわけである。2000円のほうを買わざるを得なかったのだが、しかしどうかしている。

すばらしいシラバスを書いたりするシーズンになっている。今年度と来年度は役が当たっている関係で授業数も少ないつもりでいたのだけれど、カリキュラムの都合もあり来年度あらたに持つ授業もでてきた。ひとつは今まで持ってなかった3回生の演習科目。ここは卒論を視野に入れてかんたんな社会調査法みたいなこともやる(社会学の専攻ではないので、まぁ、あまりがっつりそればかりやるわけでもないぐらいの湯加減)。で、ありがたいことにインタビューとかフィールド調査とかのはなしができる。すばらしいシラバスを考えながら、ひとつの工夫として、「量的研究/質的研究」という区分ではなくて「ハードなデータ→客観的行動の調査/ソフトなデータ→主観的意識の調査」という区分をたてて進めることにした。そうすると、エスノグラフィーとインタビューを「質的研究」に入れるのではなくて、エスノグラフィーは行動の観察調査、インタビューは意識の調査、ということになる。また、学生さんが作るアンケート調査の大部分はインタビューと同じく意識調査ということになる。まぁ、自分が学生の時に勉強した社会調査の教科書でそう書いてあってなるほどそりゃそうだと思ったことをそのまま言うだけなので、ちゃんとした社会調査の授業ではあたりまえにそうなのかもしれないけれど、なにしろちょっと社会学と距離のあるところで永年商売をしているので、遠くから見ていると社会学界隈でも質的研究とか質的調査とかいうワードがけっこう気軽に流通しているようにも見えて、しかしそういう区分をしたら説明やりにくかろうと不思議に思っていたのである。インタビューでも、構造化されたインタビューを対面で調査者が調査票に書き込むやり方でやればほぼ質問紙調査とおなじわけで、それを自記式にしてたくさん配ったら学生さんのやるようなアンケート調査ということになる。たいていその質問の中には客観的行動を訊くものと主観的意識を訊くものが混在しているけれど、客観的行動を訊く場合でも質問の作り方によって、どっちかというと客観的行動についての主観的認識を訊ねる感じになるわけで(たとえば「あなたは一か月に何回ぐらい外食しますか」みたいな)、まぁ、意外と行動主義的ないみあいでの客観的行動の調査なわけではないし、ちゃんとそのつもりでなければ思ったほどハードなデータを取れるわけではない。というあたりを整理したうえで、あらためて、現実の一端を知ろうと思ったときに、まぁ基本的にはなかなか難しいなかで、アンケート調査に何ができて、インタビュー調査に何ができて、エスノグラフィーに何ができるのか、それらをうまくやるためには何に気を付ける必要があるのか、確認していけたらいいかな、というわけである。まぁそんなややこしいことを言わずにすなおに「量的/質的」でやったほうが話が早くて学生さんも単純にそれっぽい調査に取り掛かれるからいいのかもしれないけど、まぁそのへんは、いちどやってみようと。なんかそういう楽しみ。
あともうひとつ、生涯スポーツ界隈のあるていどフリーな内容の講義科目を持つことになって、これは、ちょうどもう何年も論文にしたいなあと思ってメモとか書き溜めていたテーマがあったので、そのへんをたのしくできないかなあと、まぁ、自分が滔々と講義してもねむたいだけなので、せっかくなので学生さんとディスカッションとかしながらたのしくなにかできないかと考えているわけである。で、これもすばらしいシラバスを書き上げた。おおなんだか来年度が楽しみになってきたかな?

まぁしかし、この時期は、むかしむかしは、あるていどまとまった時間ができて論文を仕上げるシーズンだ、とか言ってたようなおぼろげな記憶があり、ここの過去ログなどを見てみてもやはりそういう記述が見つかるのだから記憶が間違っているわけでもない気もする。しかしはっと気がつけばせいぜいシラバスを書いてすこし楽しみにするぐらいがせきのやまの日々とはこれいかにである。温泉宿に逗留して丹前を着込んでむつかしい顔をして文机の前で原稿用紙をくしゃくしゃ、ぽいっと後ろ手に投げたらごみ箱のふちに跳ね返って床に散らばる、みたいな文豪生活を夢に見ていたはずなんだけれど。

そうだそうだ、来年度の人間学部公開講座でなにか喋る番が当たり、なにをしようか考えている。いまのうちにあらすじを書いておこうかなという気もして、まぁそれが論文を書く代わりといったところか。
タイトルはもう決まっていて、「自分の外側にある、自分を動かす何かについて − 人間学と社会学」とした。まぁ、人間学部の公開講座のトップバッターなので、人間学とは、みたいな話にかこつけて、まぁデュルケームのお話をメインにしようかなと。一昨年に広報委員として段取りをしたので感触はあるていどわかる。会場のぐあいで、けっこうアカデミックな語り口をしたほうがいいという感触がある。また、哲学とか心理学とかに寄せたほうが受けるかな、というふうにも考えて、こういうタイトルで、たのしくデュルケームの『社会学的方法の規準』あたりのおはなしをできれば、等々。

ともあれ、人はだれしも心に憂悶を抱えているようなつもりでいたところで春風がふわふわと吹いたりすればそれで機嫌がなおったりするものである。「ひとは身体が何をなしうるかを知らないのだ」等々。山頂の冷気と春一番との出会いから流れ到来するものの呼びかけに応えるべし、ということでこのお話には意外なオチがつくことになる。ホイ。

はてさて、あれこれ書いてはぼやぼやしていたら数日、さらに数日が過ぎる。暖かくなったかと思うとまた寒くなって雪が降ったり、また暖かくなったり、これが三寒四温というもので、毎年この時期はこうなのだからたいしたものだ。
父親の誕生日があり、それにかこつけてまたスーパーで鯛を買ってきて焼き、お赤飯を炊いて、なんか新潟のお酒らしい見慣れない小瓶を見かけてラベルには「不老長寿」とまぁめでたそうな文言があるのをちらと見つけたので縁起物ということでこれも買ったのを呑んでささやかにお祝いのおすそ分けにあずかる。この年になるとめでたいこともなかなか少ないのでそういう機会を逃さないように心がけるわけである。

お話の流れでドゥルーズの『スピノザ』など引っ張り出して読んでいる。年の功なのか、少しはそれらしく読めるような気になっている。よいことだ。
 


 


5月5日。このところなにをしていたのか。

気がつけばまた二か月が過ぎている。このところなにをしていたのか。とくになにもしていない。ふしぎだ。入試があり、年度末のあれこれがあり、卒業式らしきものがあり、入学式らしきものがあり、新学期らしきものが始まったかと思ったらまた一週間の休学期間を挟んでオンライン授業になり、そのうちゴールデンウイークになり、しかし大学は授業日が続き、しかしオンラインであり、しかし会議はあり、等々、等々。

当たっている役の任期が1年過ぎ、折り返してあとはんぶん、のうち、気がつけばすでに1か月が過ぎた。1年目はどうやらなんとかかんとかやれたようだがひきつづきやりぬくべしである。

世界がわたくしに追いついてきたのか。旅行、宴会、会食、すべてやらないことになってきた。外食を控えて自炊、孤食。ひとりで飲酒。ひきこもってインターネット。テレビと読書とDVDで映画。マンガ。たまにひとりで散歩。自転車。ご近所の生垣の花の匂い。

皮肉なことに、そんななか、はんこを押したり会議に出てむずかしい顔をして座っていたりの重要任務によって自分の思ったよりは意外に出勤する身となっている。えてしてそういうものである。

科学的態度の重要性。知識を収集して、よく観察して、判断することの重要性。

通勤電車で、ノイズキャンセル付きのウォークマンを使っている。電車の騒音をキャンセルして小さな音で音楽でも聴いていたほうが耳に良いのではということで。このところはモンクの『コンプリート・リヴァーサイド・レコーディングス』を聴いている。20年近く前、これを中古レコ屋で買ったときと、しばらくたってようやく聴いたときのことを、ここに書いている。買ったのは2003年の8月のおわり、聴いたのは2004年のゴールデンウイークあたりらしい。15枚組ボックスセットCDをようやく聴き終わったと、ちょうど今日、5月5日に書いている。その教訓やいかに。じぶんは17年たってもかわりばえのしないものを聴いている。ここにぐだぐだとかわりばえもしないことを書いているうちに20年近くが過ぎた。20年近くかわりばえもしないことをこんなところでぶつぶつ書きつづけている。17年前には近所の川辺のベンチでルソーの『エミール』を読んだりしてた。なにやらゴールデン感のある連休を過ごしたらしい。しかしついその前月までの1年間、役が当たってしんどかったらしいことを見れば、あながちむかしがよかったというわけでもないかなとも言えるし、けっきょく何もかわりばえしないままだとも言える。セロニアス・モンクは常にいい。

冬にバジルが枯れたまま部屋の中にあったプランターをまたベランダに出して、土を入れ直してまた種をぱらぱらとむやみにまいて水をやりはじめた。これももう何年目になるか、調べるとここに書いてた。2012年のゴールデンウイーク、近所を散歩して書店に入り、『おうちでハーブ栽培キット』という、昔の学研のおまけのようなもので、タマゴ大の器と土と種が3組入っていて、ミントとイタリアンパセリとバジルが窓辺で栽培できます、というのを買ってきて、毎日水をやって観察していた。ミントとイタリアンパセリはいまひとつ続かなかったけれどバジルはなんだか育って、何度か鉢を買い替えたり、新しい苗をホームセンターとか園芸屋さんで買ってきたりしながら、長い帰省のときには水やりに気をもんだり、またホームセンターで「水やりセット」を買ってきたり、それでも帰省から下宿に戻るたびにどうなっているかやっぱり気をもんだりしながら、まぁ気がついたらこれもずっと続いている。最初にキットを買った近所の書店はなくなった。今回はバジルと青じその種をまいてみたのだけれど、うまく発芽するだろうか。  

 

 


6月30日。気がつけば今年も折り返す。このところなにをしていたのか。

なんとなく明るいなということで手を伸ばしてめざまし時計を叩く − べつに叩く必要はないというかよく働いてくれてるめざまし時計を叩いても気の毒なのだけれど、時計のほうでもどうせ叩かれるんじゃないかなということでたぶん衝撃があまりこたえないような作りになっているようなのだがそれはともかく − と、ライトが点いて表示が見える。5時過ぎとかそのぐらいで、しかし遮光カーテンは朝の光が透けてどんどん入ってきているので、部屋もずいぶん明るくなっている。そこからしっかりまた寝るのもむつかしいけれどかといって起きてしまうには早い − Fitbitで睡眠時間をモニタして目標を6時間にしている − けれどいつも達成できたりできなかったりしている − のでじっとしている − と、なんとなくふと気がつくとアラームが鳴っていてそれで朝、ということになる。時計を叩いて音を止めて、あといちどぐらいじっとしているともういちどスヌーズで音が鳴り、時計を叩いて音を止めて、まぁ観念して起きる。夏至も過ぎて、日が長くなって夜明けも早くなって、東向きの部屋だと寝不足が懸念される季節だがそのわりには今年はそれなりに寝れているような気がする − Fitbitの示すグラフによるとどうやらそのようである。

対面授業がすこしずつまた再開して、少人数の演習なんかをだらだらとやっているとやはり大学っていいなと思う。感染対策のためにいつもと違う講義室で、スッカスカの状態で少人数で、だらだらと無駄話なんかをしながら論文を読んだりしていると、しみじみいい。大学の勉強は、いついつまでに教科書のどこからどこまでを暗記してテストでいい点を取りましょうみたいなことをやってもあんまりおもしろくないわけで、教育学にせよ社会学にせよ、自分にかかわりのあることに自分で疑問を持って自分で考えて自分の言葉でああだこうだいうもんなので、まぁ、あー今日何しよっかなーみたいなことをいいつつやるのがちょうどいいんである。今年度は新しく担当した演習で、社会調査の練習みたいなのの、フィールドワークのあたりを分担することになって、やはりそれは対面授業が楽しいわけである。インタビューの練習もすることにして、これはロールプレイ。お題を決めて学生さんどうしでインタビューみたいなことで、「あー、なんかいいお題あるかなぁ…じゃ、こうしよっか、商店街を盛り上げたいのでもっと大学生に利用してほしい、みたいな目的で、研究をやっているとして、そのために大学生にインタビューすることにしましたー、みたいな設定で、まぁ時間は、まぁ今日は練習なので5分ってことで、挨拶と趣旨説明とICレコーダーの許可からはじめて5分間、って感じでどう?いけそうっすか?じゃそれでー」みたいなかんじ。で、2人ずつやってもらってタイマーをどんと置いてカウントダウン、で、ビデオも回して他の学生さんたちは見ていて、終わったら振り返り、みたいな。で、たいていとくに最初は全然うまくいかないので、どうしたらいいかね?とかなんとかいってちょっとみんなで考えたり、次の人たちがまた挑戦、まぁやっぱりうまくいかないみたいなことで、まぁそのぐらいしてからちょっと種明かしをしたりするとこちらの株も適当に上がるというもので、授業としてもまぁ楽しくできるわけである。こういうのはあっというまに時間が過ぎる。ま、大学なんて贅沢なところですわね。

今年もバジルをまいたという話が、そういえばあったけれど、どうなったのか。この前ここに書いたときにそんなことを言っていて、あれから2か月が過ぎた。何かが生えてきたのか。2か月も経っていれば、何かは生えてきてもおかしくない頃合いである。さてさてどうなったか、さあさあいよいよお話は佳境に、さあさあさあさあ、と神田伯山のようにもったいをつけるわけだが、結論としては、まぁいくらかは生えた。正確に言うと青じそもまいたけれど青じそのほうはさっぱりはえなかった。バジルのほうもプランターにむやみに大量にまいたわりに5つぐらいしか生えなかった。毎日毎日、早く芽を出せといってたくさん水をやっていたので、たぶん水のやりすぎだったのだろうと思う。それでさびしいので追加でまた小さい鉢に残りの種をむやみにまいて、また早く芽を出せと毎日水をやっていたら、今度は遠慮していたものの鉢が小さかったのでやはり水のやりすぎになってたようで、思いのほか生えず、また、らちが明かないので早々に小さい鉢から大きいプランターの空いているところに植え替えようとしたらまた意外にも生き残りが減ってしまったようで、まぁ青じそはまたしてもひとつも生えず、なかなか今年はたいへんだった。それで「まさかの大虐殺だなあ」と、これはmassacreのだじゃれなのだけれど誰も聞いていないところで縁起でもない独り言を言ってみたりしつつ、まぁ、生き残っているバジルが育つのを見ている。最初にプランターに撒いて生き残った一期生はそれぞれそれなりにバジルらしくしっかりしてきた。あとから追加でまいて移植した二期生チームもなんとか新天地に根付いたようなので、彼らがぶじに成長してくれればプランターもそれなりににぎやかに充実してくれることであろう。massacreというのはmass+sacreで、たぶんsacred神聖なとかsacrifice犠牲にするとかそういう意味から派生した語であろう。生き残らなかった種子たちはきっと聖化されてプランターの生き残ったバジルたちを守護してくれることであろうと考えることにする。

朝、目がさめる。たまに対面授業をやる。ベランダのプランターをながめる。おおむねそんなかんじで今年を折り返す。