更 新 メ モ 過 去 ロ グ
(2023/1/1 - 2023/6/30)


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1月9日。よい年末年始でした。

年末の町を歩いている。まだ午前で、晴れていて、実家から駅に向かって歩きながら、ひさしぶりの町を確認しているわけである。この冬休みには年末に帰省することができた。日程の具合で年末中には下宿に戻らないといけなかったけれど、それでも何日か、ひさびさに両親とゆっくりとできたのでよかったわけである。ピンク色のちょっと発泡しているにごり酒をいただき、あとビール、それでおいしいいかのお刺身とかビフテキとか、そしてこの時期に実家に帰ると食べる赤貝(サルボウ貝)の煮付をちょいちょいといただいたり。それでお正月飾りをてつだったり、電気機器とかスマホとかタブレットとかの設定とか不具合とかをあれこれ手当して、まぁよいことができたという気持ちである。30日の午後に戻るつもりだったのが、朝、ふとトイレの不具合を発見し、あれよあれよで暮れも押しつまった中、工事してもらうことになり、乗り掛かった舟で自分もついでに工事完了問題解決まで見届けることにして、午後はずーっと「ドキュメント72時間」の特集 ー 年間ベストテンの中に実家の近くのエピソードもあって、あれこれしゃべりながら ー を見ながらときどき作業の具合も見学したりしつつ、夕方には無事に工事も完了してちょうど新年に向けてトイレも新調されたので結果よかったわけである。それで結果なんとなくもう一晩ゆっくりしてから、ちょうど大みそかの朝に出発し、まぁのんびりと昔に通学路だった道を通り、中学校が「義務教育学校」になっているのを見つけておどろいたりしつつ、そこからまた駅まで歩いて、まぁ、覗いてみたかった書店(webで知ってちょいちょいサイトを覗いているちょっと趣味のよさそうな個人書店)はまたしても見つからなかった(年末で休んでたらしい)けれど、久しぶりの町は、なんとなく昔のとおりで、またなんとなく新しいかんじにもなっていて、まぁ遠目にお城も見れたし、まぁ駅の近くも少しうろうろできたし、まぁわるくなかった。大みそかの移動は、幸いにして汽車も比較的すいていて、らくらくと、また出発が早かったので明るいうちに到着し、スーパーでおせちとかおもちとか買い込んで下宿に到着した。
時節柄もあって、以前のようにというわけにはいかないものの(部屋の中でもずっとマスクをしていたり、そのあたり、安心して気持ちよくのんびり過ごすために万全の手を尽くした)それはそれとして、ひさびさによい帰省ができてよかった。
それでもうこの冬休みの望みはだいたいすんで、あとは下宿でぼんやりとすごしていたようなきがする。3日まで完全に引きこもって下宿から出ず、気が付いたら4日にはじめてドアを開けて近所のスーパーに行き、まぁ少し仕事をして、おおかたぼんやりとすごした。

帰省すると、実家で食っちゃ寝ーのくらしをしているのがほんとうの自分、ほかはすべて幻のような気がする。こういうところに何か書こうかと思っても、なにかとりとめもない。まぁ授業が始まってまた阿鼻叫喚の巷に戻る。  


 


2月19日。こよみの上ではもう春。このところなにをしていたのか。

節分もすぎて、こよみの上ではもう春。おだやかに春を迎えることができたことをひとまずよろこびましょう。
おだやかにとはいっても、まぁ、1月も学校が始まってからはけっこうあわただしかった。れいによって共通テストはあったしね。もう新年度に向けてのあれこれが始まっているし、また、これも新年度に向けての大学広報のあれこれの締め切りがのきなみ1月2月につぎつぎと設定されていて、それらを少しずつ待ってもらいながら自転車操業のように、ハードル競争のように、なんとかひとつひとつ乗り越え乗り越えの日々である。

秋学期の社会人向けオンライン授業「生涯学習支援論2」、ようやく15回を完走。エスノメソドロジー系のワークプレイス研究をしっかりめに紹介して、そのあとに、「会議」についてのはなしもなんだかんだけっこうやったので、自分としては面白かった。毎週土曜に半日か終日、資料を作って、それをもとに日曜に講義を録画。一発撮り編集なしでやると決めていたので労力をかけないっちゃかけないわけだけれど、なにせネットブック2in1タブレットPCを使っていたので、30分ぐらい録画して見てみたら原因不明で撮れてない、などということも何度もあって(たぶんPCの処理能力の問題だろうとにらんだ)、まぁけっこう労力をとられたし、まぁ1月についていえば週末に共通テストが入ったのでその日は一日つぶれてしまい、結果、あいてた一日で資料作りから収録まで全部やって、まぁこれもくたびれたってのもある。まぁでも完走しました。受講生のみなさんも毎回しっかり反応してくださったので、やりがいもあって、まずまずよかった。

書きかけては日が過ぎ、日々は流れる。某日、バカラックの曲をなにか、と思い、ふとYouTubeで映画『My Best Friend's Wedding』の有名なシーンを見直したら、何度も繰り返し見ることになる。レストランで会食の席で「I say a little prayer」をみんなが歌うシーン。そして、ジュリア・ロバーツがキャメロン・ディアスに完敗するカラオケのシーン。無茶ぶりでキャメロン・ディアスにマイクを渡して彼女が「I just don't know what to do with myself」を歌い始め、そして、歌い終わったときには、ジュリア・ロバーツの敗北は決定的になっている。そのわずかのあいだにジュリア・ロバーツの表情がどのように繊細に移り変わるか見ていると自分のことのように胸が痛む。甘さと苦さ、幸福と孤独、諦念、ウィット、アイロニー、等々、それらはそのままバカラックの曲にあてはまるというしだい。

また日々は流れる。2月の前半は会議が続き、またそれを過ぎてもひきつづき事務的な提出物の〆切がテトリスのようにつぎつぎ降ってくるかんじ。それで日々をあたふたと過ごすのだけれど、ほかのひとたちが自分とはステージの違うテトリスを神速でこなしておられるのを見ると、自分ごときがうだうだいってはいけない。

ふだん使いのAndroidタブレットが買って4年ほど経過して、ぼちぼち動作が重くなってきたのもあり、また、PDFをA4サイズになるべく近い大きさで読みたいという願望もかさなり(先日、卒論をPDFで読むときにちょっと高まってた)、なんとなくAmazonを物色していたわけである。タブレットの相場は8インチか10インチってところで、あまり大きいものは層が薄い。でもって十数万とかなんとか、高い。で、ふと、中古のレストアPCで2in1のタブレットで12.3インチで4万弱、というのが目に留まった。なるほどねぇ…と思いつつしばらく放っていたけれど、なにかのきっかけが不意に訪れたのか、魔が差したのか、ふと購入して、まぁそうするとすぐ届いた。まぁ、使ってみればふつうに使える。画面はまぁ、12.3インチというとこんなもんか、というぐらい。重量は0.9キロと書いてある。まぁしかしAndroidタブが523グラムだったのからすると、重さはある。うーん、これをふだん使いにしてカバンに放り込んで歩くかなあというと、ちょっとわかんない。なんか中途半端なものを買ったかなあという気もちょっとし始めている。この人の働く場所、役に立つと喜ばれるような場所はあるのだろうか。衝動買いで何か生活向上に結びつくか、あるいは楽しい気持ちになるか、というと、まぁこれもなかなかそうもならないというのもある。まぁしかし新しいPCというのは慣れないものなので、様子を見ながらというのもあるだろうね。

三寒四温と言う。こうして日々がすぎるまま少しずつ書いては止まり、書いては止まりしていると、春らしい気候になったかと思えば雪が舞ったりする。まぁしかしそんなこんなしながら春に向かっていくのだわね。じぶんのきげんをとるやりかたをみつけること。
 


 


4月10日。あっというまの新学期。

ことしは桜もあっというまだった。あっというまの新学期。ほんとうにあっというまだった。春休みにまたいちどぐらい帰省するつもりだったのだけれどできなかった。何をしていたのか。たぶん会議に出たりしていたのだと思う。ことしはまた花粉の多い年ということで、たしかにきついかんじはある。自分はどうやらヒノキのほうに反応しやすいようで、シーズンの後半にかけてもりあがりをみせてしかも長引く、みたいなパターンを会得しつつある。あるいは、花粉に出会わないように不要不急の外出はしなくなったのももうこの季節の恒例になって、春らしいうららかな日に、窓も開けずに部屋に引きこもって過ごす。そうそう、だから窓も開けないわけなので換気がこれまた悪い。ついでにいうとこの春から自転車に乗るのにヘルメットの着用が努力義務となり、それで自転車に乗るのもおっくうになる。まぁ、すべてがあいまってボーっとするようにできあがっている。私のせいではないわけである。

通勤電車でよく一緒になっては研究っぽい会話をしていた認知言語学の先生、同期入職だったのだけれど、年度末で退職された。ひとまずの定年ということで思うところあって特に再任の手続きをせず、というかんじのよう。また、おなじく同年代に近いクザーヌスがご専門の先生(こちらもたまにだけれど研究のお話を伺えるのを楽しみにしていた)が、新年度から副学長に。自分は少し年少だとは言え、やはり同期の先生が退職されたり同年代の先生が執行部(はたから見るとやはり激務に見える)に入られたりとなると、いろいろな思いは去来することになる。

自分の専攻研究室でも、おひとり先生が定年退職された。社会人経験もあり学生さんたちともしたしくかかわり、すっかり頼みにしていた戦力だったのだけれど、いたしかたなしである。そしてしかし、後任の新しい先生をお迎えできたので、またあらたにチームプレーでやっていきましょうということになる。専攻研究室の教員チームというのは、サッカーのチームみたいなもんで、システムとして動くわけだが、選手が変わればシステムも変わるわけで(そこはサッカーみたいにシステムに選手を当てはめるわけにもいかないからね)、まぁとくにこのたびは、来年度からの改組を準備中なので新学科に向けて、新戦力を加えてチームがもうひと化けしようとしているところなのである。
まぁだから、状況としてはきわめて前向きにダッシュ、といったところ。そうでもないとボーっとしたままだしねえ。

入学式の日、新入生オリエンテーションの日と、学期初めには学科主任やら課程主任やらの仕事が重なって、段取りのわるさもあって無駄走りばかりしていた。ドッグランの犬のように。それで半日ばかりダウン。まぁしかしなんとかだましだましである。

新型コロナウイルス感染症について、やはり言及しなくてはならないかもしれない。まず「3月13日からマスク着用については屋内・屋外にかかわらず個人の判断に委ねられることに」なった、ということになっている(それまでだってマスク着用が強制されていたことなどないわけだが)。このアナウンス以降、マスクを着用していない人を見かけることが俄然増えた。ウイルスの性質が変化したわけではない以上、このアナウンス以前と以降でやるべきことの何が変わったのか、何も変わってはいないはずなのだが、行動を変化させた人は何によって変化させたのかがよくわからない。感染対策の上でマスクはどのような効果を持っていたのかというと、「自分がウイルスを吸い込んで感染することを防ぐ」効果は限定的であり、「もし自分が感染している場合に自分がウイルスを排出して他人に感染させることを防ぐ」効果が大きいことによって感染対策となっているのだ、というのは、たぶんさほどむずかしい理屈でもないだろうと思う。新型コロナウイルスの厄介なところが、自覚症状なしに感染してウイルスを排出して感染を広めてしまうことだ、というのもすでに知られていることだと思う。また、新型コロナウイルスの感染力がきわめて強く、あのきわめてきつい行動制限がかかっていた時期に、インフルエンザをはじめとするほとんどの感染症がほぼ姿を消していたのにもかかわらず新型コロナだけは感染し続けていたほどであるわけで、その感染力は現時点ではウイルスの変異によってむしろより強くなっている、それもそれなりに多くの人が知っていることと思う。また、現時点までのウイルスの変異では、残念ながら「弱毒化」は見られず、ワクチンの効果も有効とはいえ限定的であり、高齢者や持病のある人は依然として感染すれば重症化のリスクを抱えていること(そして、誰でもわかるように、そうしたリスクを持つ人の多くは外見からはわからないし、たとえば家族や近親者にそうしたリスクを持つ人がいるかどうかはいっそう外見からはわからない)つまりは自分が感染してスプレッダーになれば周囲の人たちを危険に曝すことになる、それがつまり「感染症」というものの性質だということも、定義上だれでもわかるはずのことである。ここまでのことは、特に間違っていないはずだというのが自分の理解である。そうした、ウイルスの性質やマスクの効果や感染症というものの定義についての知識を判断材料としたうえで「個人の判断」をするとして、では、「もうマスクをしなくてよくなった」という「判断」がどのような理路で導出されるのか、ちょっと見当がつかないってところはある。
それで、現在は第8波の下げ止まりから第9波が始まったところで、また実効再生産数が1を超えはじめてきている。それで、5月からは(よく意味はわからないが)感染症法上の位置づけが5類になりますということで、それによって具体的に何が起こるのかはよくわからないのだけれど、感染者の把握や健康管理、感染予防のワクチン接種などが従来よりも厳格に行われにくくなるのだろうということは想像していて、たぶんいままで毎日モニターしている感染者数データも(多分もうそうなり始めているんだろうけれど)正確ではなくなっていくだろう。で、おそらくそんな中で第9波がどのように拡大していくのだろうかと思うと、まぁひかえめにいってぞっとしない心持ちはする。まぁしかしどうも自分(およびコロナ禍初期から追いかけていた医療系の人たちとか専門家会議の人たちとか)以外を見るとさして気にかけているようには見えないし、まぁ自分の思い過ごしであればそれはそれでけっこうなことである。

さてそうこういいつつ新学期…。今年度がどんなペースになるのか、やはりひとまわりしてみなくてはわからない。こうご期待。

ごたぶんにもれず料理系YouTubeなど見ていたところ、このところほうれん草を食べるようになった。買ってきたぶんをいちどにあく抜きしてからフライパンで火を入れて、常備菜にしてしまう、というやりかたが意外と性に合って、また、そうやってまとめて作ったほうれん草が案外おいしくたべられるので。あと、これもふとしたことからキャベツのそれなりに自分史上でいうとふわふわの千切りに近いものがなんとなくできるようになって(キャベツのぐあいがたまたまよかったのか、包丁の研ぎぐあいがたまたま合っていたのかもしれないけれど)、これも久々にたくさん食べている。まぁね、春だし、野菜を食べましょう、野菜を食べる生活を立て直しましょう、ということでもあるね。
 

 

 


5月21日。このところなにをしていたのか。

ゴールデンウイークこそはと思っていたがタイミングを逃し帰省できず。まぁ、また人混みが戻ってきたというなかでかつてのような乗車率の新幹線や在来線特急に乗ろうというのも気が引けるのでこれはこれで理にかなっていたと考えることにする。
4月下旬から以前のように − たぶん花粉症の流れで − 咳が出はじめ、授業で大声で90分喋るのを何コマかずつ毎日やっていたらそれはやはりあまりよろしくなくて、そしてしかし自分もやはり少しは知恵がついてきたのか早めに近所の医者に赴き、まぁアレルギー的なものだろうということでその線の薬をもらって飲んでいたら、またちょうどゴールデンウイークにさしかかって授業というのがしばらくなくなったこともあって、おおよそ咳はおさまった。それでよかったよかったと思っていたら、薬が切れてまた授業がはじまったらなんか咳も戻ってきたぽい。あなどれないことである。

まぁそういうわけでけっきょく下宿でぼんやりとすごしていたら連休もあっというまに過ぎてしまい、また通常営業の日々である。そして、おおよそひと月半ほど経過してみてわかったのは、この春学期はけっこうきつい。朝イチがおおいかんじはある。まぁしかしそれはそういうものなのだろう。まぁ、のんのんずいずいと日々を送る。

ずっと何年も朝イチのときは0550にしていたがこの春から0600にしている。少しの違いだがなんだかぐあいはわるくない。もっとも日の出が早くなったので5時すぎぐらいに目が覚める。まぁしかしそこから布団に潜りなおし二度寝をするというのはちょっと得をした気分になる。それでしかしFitbitで睡眠も測っていることもあり、このところ早く寝ている。早く寝ると何か夢を見て目が覚めて、それがいままでならまだ寝てないような時刻だったらちょっと得をした気分になる。得ばかりしていていいのか。

新年度になってひとついいかなと思ったことは、新年度の研究費で本が買えることで、昨年度の研究費の締めから新年度までの間に面白そうだと目についてたくさんカートにたまっていた本を一気に発注したら10万円分ぐらい届いてつんどくの山がまたひとつ増えた。多少がんばってこつこつと読んだところで、段ボール箱で一気に届いてはたまったものではない。なぜそんなに届くのか、と首をひねるが、たぶん発注したからだろう。
それでまたゴールデンウイークのある日、近所の書店をちょっと覗いて、ちょっと文庫の棚など見ていたらちょっと読みたそうな本があって、しかし下宿と研究室のつんどくの山を思うと手が伸びなかった。それで、ああこれはいけない、ちょっと散歩に出かけてちょっと書店を覗いて棚を見てちょっと読みたそうな本をみつけて何冊か買って帰って楽しみに読む、ということができなくなってしまっては人生はダメだ、と卒然と思いいたる。
それで下宿に積んである本に手を付けて少しずつ読み進めている。本を読んでなにか記録をweblogに書いていくとそれなりに進んでいるかんじはでるのだけれど、まぁそもそもものによっては書かないわけで、たとえば仕事のために読んだのはあまり書かないし、まぁ正直な感想を書きにくいのも書かないし、まぁつんどくになっているというのだからめったに書くと、え、今頃読んでるのか、みたいになるのも剣呑なのであまり書かない。とかなんとかいっていると、読み進めていってもなんだかコソコソとやっているかんじにもなって張り合いが出ないというのもある。まぁしかしなにはともあれつんどくの山にちょっととりかかったというのは、今年のゴールデンウイークにやった数少ないことのひとつということにしよう。

れいによって書きかけては何日かたち、ということをしているうちに実家からトマトジュース届く。思っていたよりも上等っぽいワインっぽいガラス瓶に入っている。あっさり爽やか。生食用のトマトをジュースにしましたということらしい。おいしくいただく。ありがたきかな。