現場主義のジンパ学
北大文学部名誉教授 尽波満洲男
私が、このジンパ学講座を受け持つ尽波です。ツキナミじゃなくて、姓はジンパ、名はマスオ、昔の満洲、いまは中国東北部などといっておるが、あちらで生まれたから親父がそうつけてくれたんです。ツキナミではないからね。まあ、名は体を表すと昔の人はいいことをいっとるが、当然私の狙いも講義も月並みであるわけがない。しつこいとみる人もいるかも知れません。
これまでジンギスカン料理、あるいはジンギスカン鍋について、さも定説のようにいわれている伝説があります。インターネット上でも散見されます。ところが、そういった本当らしそうな史話に限って、ろくに文献も示さず、探さずなんですね。だれかの思いつきだったり、ものがジンギスカンだけに焼き直しもありとね。また、郷土史をやる連中が、そういう怪しい説を引用し合って権威付けしたり、まったくいい加減な”孫引きゴッコ”をしてきた。自信のないやつはロクに調べもせず「諸説がある」なんてね。
私が開拓してきたジンパ学は、そういう類の作り話や羊肉通販ページの一口知識とは全く違うのです。育ち盛りではあるが、れっきとした学問なのです。調べたらこうだったと証拠を明確に示しながら、正しいジンギスカン料理の歴史を掘り起こす。それがジンパ学です。
どうです、構内至るところ、ジンギスカンの紫煙たなびき、香煙鼻をくすぐる北海道大学。しかもその文学部らしい学問、必修ではないけれども、あえて必修科目と同格とうたう大きな意義がわかるでしょう。まだ研究者が少ないので、あんまり耳にしたことはないと思うけれど、広い意味でジンパ学は食文化論と東洋史学にまたがる学問なのです。
伝説に戻りますが、なぜ、そんなインチキな作り話がバレなかったのか。何となく世に認められ、通用してきたのか。これが重要なポイントなんです。それにはちょっとした訳がありましてね。かつてはどこの図書館にいけば、自分の調べたいことが書いてある本があるのかすら、わかりにくかった。偶然でもわかったことだけ書いて、後は想像で補うしかなかった。
それも郷土史家らしい中華思想でね。自分の関係する場所、職場が世界の中心だと信じ、強烈に高めようとする。月寒だ、滝川だ、道産子は北海道だというわけです。最新表現でならセカチューということだ。とても参考文献なんか示しようがありません。たまたまですよ、それを見つけた者が受け売りするから、固まった見方のような印象を与えやすい。文学部のほかの分野でも似たようなもので、学生はどのあたりのことがわからないのか、どの辺までわかっているのか―がわからない。勢い指導教官の示唆する方向へ進まざるを得なかったんですなあ。
いまはまったく違いますね。インターネットという新しい道具が使えるのです。検索エンジンで、ヒントを含むホームページを見つけたり、探す本がどこの図書館にあるのか即座に調べられる。開拓使の文書だって、パソコンを通じて居ながらにして読めるものがあるのです。ホームページの作者や関係者、本なら著者が生きていればメールで質問もできます。諸君がこの講義録を見付け、読んでいるということが、そのいい例ですね。時間と労力はものすごくかかりますが、100年前の新聞でもマイクロフィルムで読めるし、新聞によってはデータベースがあり、キーワード一発で検出できます。
より真実に近い情報を求めて積極的に動けるようになったのです。もはや、蟻地獄のように穴の底で、蟻が転げ落ちてくるのを待つみたいに、情報を待つ時代ではないのです。みんな羽を与えれたのです。もうトンボでなきゃいかん。自ら飛行してえさになる情報を探すのです。どんどん新しい情報を追加し、前説を手直ししていく。
そうしたことができなかった時代に書かれた事柄を、いつまでも金科玉条のように振りかざす歴史家であってはいけないのです。インターネット以前の古い本や資料はもう一度視野を広げて吟味してみる必要があるのです。ジンパ学はそれを果敢にやってみる学問です。論より証拠、新渡戸さんは「学問より実行」といわれた。
いくら羊肉がテーマでも、羊頭を掲げて狗肉を売ることにならないようにと自戒はしているのだが、ついつい大きく出ちゃうのは不徳の致すところ、はっはっは。
刑事コロンボが、ボロ車で殺人現場へ現れ「うちのかみさんが…」てなことをいいながら、あちこちかき回して調べまくるように、ジンギスカンの調べ方は現場主義で通す。つまり、資料あるいは情報はだね、できるだけ原本に当たることを心掛けていくと、見つかることがあるんですねえ。運悪く真相がわからなくても、これまでの嘘がばれます。
ところで上の丸い物はわかるね。これは文学部が体験入学の高校生に配った団扇の写真です。ここだけの話だが、立ち食いのジンギスカン風景のね、わきに北京正陽楼、ジンギスカン料理と書いてある由緒ある墨絵調の挿絵を一時期見せていたんです。教育用だから許されるかとも思ったけれども、そこはそれ、君子危うきに近寄らず。著作権侵害で訴えられるのが恐いので、引っ込めて文句の出ないPR団扇で間に合わせることにしたのです。だから、皆さんはそういう絵があると思ってみて下さい。
その写生画は昭和5年6月に発表されたものなんです。いまを去ること70年以上も昔です。かの文豪里見惇と志賀直哉が満鉄という会社に招かれ、一緒に満洲と支那へ出かけた。いまはどっちも中国になっちゃったが、それはともかく、里見惇が時事新報に連載した紀行文「満支一見」の挿絵の1枚を見せたかったんですよ。どうしても見たいという人は、私の自宅の研究室にくるか、札幌市の中央図書館にいって、その「満支一見」を借りて見て下さい。名誉教授といっても学内には机一つも持てないのでね。それから、後でわかったのだが、それは某焼き肉史に、わが文学部同窓会のホームページ・e楡文(いーゆぶん)から「再引用」と称してだね、堂々と掲載されているから探してご覧。昔薄野あたりにあったトウキビを売る夜店とその客といった雰囲気を思い出させる絵です。
ああ、ひとつ注意しておくが、いまここで使っている里見の惇という字は正しくない。本当は弓扁に享なのだが、パソコンで使えるJISコードにも句点番号にもないんだなあ。それで図書館なんか困っちゃって、里見トンなんて、コメディアンみたいなトンでもない書き方をしている。わが愛する北大図書館は括弧付きでトンだ。後で描写を吟味するときは、UNICODEで正しく出てくるから間違いだと勘違いしないように。
平成15年の正月に北海道新聞が「探偵団がたどるジンギスカン物語」を連載して、ジンギスカン鍋を描写した小説として、昭和18年に永井龍男が書いた「手袋のかたっぽ」を紹介しました。事実、国語辞典であれを初出としているのがあります。そうじゃないんですね。もっと古くから小説に現れているし、新聞や雑誌の記事にもあるということを教えましょう。私は既に大正13年までたどっています。もっと調べれば、明治までたどれるはずだと信じています。
はい、では私のシラバスをもう一度読んで受講手続きをするように。私は出欠は取りません。その代わり私の話をよく聞き、私が配る資料を読みこなして、私の探索と推理のあら探しをして、アッといわせるレポートを提出してくれる学生を歓迎するからそのつもりで。古いジンギスカンの常識なるものを皆さんと一緒にぶっ壊し、北大ジンパ、ジンパあっての北大という認識を天下に広めようというのが、私のジンパ学なのです。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
研究と同時進行の講義なので全部読めません。あしからず。
随時、盆栽を慈しむように一部の加筆や修正をしております。難航しているテーマもありますので、年代順にこだわらず、中世などを飛ばして明治以降についての講義も公開しております。
「現場主義のジンパ学」は平成15年にジオシティーズの場を借りて北大文学部同窓会が開いたホームぺージ「e楡文」の一部でした。その後同窓会を離れて研究と公開を続けてきました。上記の画像は当時のヘッダーであり、内容もほぼ当時のままです。研究の進行によって初期の講義におけるいくつかの見当違いがわかってきましたが、当分そのままにして資料探しを続け、本として残すときに修正します。
平成28年7月を期して広告に邪魔されないページにするため、ここへ移転しました。しかし平成31年3月、契約容量の100MBに達し、講義録のちょっとした追加もできなくなりましたので、新規公開の講義録及び部分追加をした講義録は「さくらインターネット」へ移しますが、目次と閲覧はこれまで通りです。さらにジン鍋アートミュージアムの所蔵鍋の公開ページとの連結を考慮しております。これからも仲間と共に、未着手のテーマの解明に努めます。
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